この本は、地元の書店で見つけた一冊です。まず、そのタイトルに引かれて手に取ったのが始まりでした。『暇と退屈の倫理学』は、暇と退屈の違いを鮮明に定義し、その結果、私自身が暇であり、同時に退屈しているという結論に至りました。この本の素晴らしい部分は、特に「まえがき」に集約されていると感じます。
退屈と幸福のジレンマ:社会の豊かさと個人の充実の間
「人々は、社会を豊かにしようと努力してきた。しかし、その目標を達成すると、逆に不幸になることがある。それならば、社会的不正な状態にしておくべきかもしれない。なぜなら、不正を正そうとする試みが成功すれば、結局人々は不幸になる可能性があるからです。」 「人生の充実を求めることは、人生の意味を追求することと同義です。スペンサーによれば、かつては集団的な意味が存在し、個人の人生の目的が社会によって提供されていました。」 「つまり、退屈の対極にあるのは快楽ではなく、興奮であるということです。」コロナ禍を経て、SNSなどで炎上事件が増えたように感じます。これは多くの人が強制的に暇な状況になり、かつ退屈を紛らわせるために何か刺激を求めている可能性があると考えます。
人々は毎日同じことを繰り返すことに耐えられません。日々のルーチンが続くことを考えるだけで、我慢できなくなります。ですから、新しいことやエキサイティングな出来事が起こることを望むのです。しかし、そうした出来事はなかなか現れません。こうして人々は退屈を感じ、興奮できる対象を求めるのです。
退屈からの脱出
一人で部屋にいると暇で退屈に感じることがあります。退屈が我慢できないということです。これこそが、パスカルが指摘したように、人間の不幸の根源かもしれません。30代になると、お金や時間に余裕が出てきます。これは個人の感じ方に依存する部分もあるでしょうが、20代のように必死に働く必要がなくなり、自分の経験と知識を活かす余裕が増えてくることを感じます。お金も増えてきて時間が余る、一方で何か新しいことに取り組む機会が少なくなり、退屈や暇を感じることが増えてくるのではないでしょうか。
結論として、目の前のことに真摯に向き合い、自分の興味を追求することが、退屈を乗り越えるための最も効果的な方法だと思います。この本は、その過程について詳しく語っており、どの年代の読者にも価値のある一冊だと感じました。
▼読んでみる